GoogleのGメールをはじめ、世界にはたくさんのフリーで使えるサービスがありますよね。
私のような個人事業主にはなくてはならないサービスです。
でも、本当にフリーか?
フリーというのは、「Free (無料)」ということか?
その「Free (無料)」と引き換えに「Free (自由)」を失っている可能性があることに気づいているか?
この本は、そんなところに言及しています。
それにしても、妙に危機感を煽るような文章でしたね σ(^_^;)
苫米地氏の書籍を読むのはこれがはじめてなので、これが彼の文体なのか、何か意図があるのかは、私にはわかりません。
読んでいてその点が気になりました。
「コンフォートゾーン」の中に巧妙に織り込まれている経済的な概念
本書ではフリーで提供されているものやサービスの裏側に対する、キレのある洞察が書かれています。
経済的な観点と、人の心理的な観点をミックスしており、納得感が高く、引き込まれるところがありました。
フリーミアムに対する洞察から、彼が提唱している「コンフォートゾーン」という概念に発展していくところが面白い。
我々の経済的な感覚は「コンフォートゾーン」の中に巧妙に織り込まれています。
それが、実は何者かによって仕組まれているものだとしたら?
経済というのは、無限の富を産むために、時の為政者が我々一般庶民に仕掛けたカラクリだとしたら?
アメリカのFRB設立の真相に迫っているところなどから、そんなことを提唱している感じがしました。
「豊かさ」の基準
私自身も、自分が本当に望んでいる「豊かさ」より、世間で言われている「豊かさ」の方が「豊か」だと思わせる仕掛けが、世間には本当にたくさんあると思っています。
なぜ、みんな同じような人生を送っているのか。
なぜ、みんな同じようなものを欲しがるのか。
なぜ、みんな同じようなところに行きたがるのか。
不思議で仕方ありません。
量産型女子大生
「量産型女子大生」という言葉を最近知ったのですが・・・
見事にみんな同じような髪型で、同じような服を着て、同じようなポーズをとっている彼女らの写真をみて、ゾクっときました。
なぜ、みんな同じようなファッションをしているのか。
本当にビックリしました。
ここまで価値観の統制が取られてしまっているのか、と。
テレビや雑誌など、マスコミの見えない手を感じます。
個性なんて完全に削ぎ落とされてます。
違いはある。が・・・
もちろん、彼女らもよく見れば違いはあります。
ただ、パッと見では気づきません。
例えは悪いですが、敢えていうなら、10匹のバッタを横並びにして、それぞれの違いが分かるか、というのに近い。
(例えが悪くて申し訳ないですが・・・)
バッタは自然の姿としてああなっている訳ですが、自ら考える力を持った人間がほとんど同じ姿になっていることには違和感を感じてしまいます。
無料に奪われた自由
人は洗脳されるのを嫌います。
縛り付けられるのを嫌います。
自由を求めます。
その先にあるのが彼女らのような姿だとしたら?
私たちは、見事に、誰かの手によって、縛り付けられているということでしょう。
しかも、自由だと思わせておいて、その実は何者かに縛り付けられているという・・・マジでタチが悪いです。
その根底に、「Free (無料)」による「Free (自由)」の略奪があるのではないか。
本書を読んで、そんなことを感じました。
おわりに
読んでいて色々と考えさせられる本でした。
苫米地氏が提唱している「コンフォートゾーン」という概念はなんとなく知っていたのですが、より深くわかりました。
今や私たちの暮らしと経済は切っても切れない関係にあります。
が、実はそんな「私たちの暮らしと経済は切っても切れない」という考え方すら、誰かに仕組まれた世界のシステムでしかない。
かなり巧妙に仕組まれていて、ほとんどの人がそこに疑問を感じないか、感じていても考える暇を与えないようにしている。
そんな観点で自分の生き方を見直してみると、マネーゲームからの脱却のヒントが得られるかもしれません。
彼の著書をもう少し読んでみようと思いました。