私の実家がある大三島 (瀬戸内海に浮かぶ愛媛県最北端の島)には、ちょっと変わったものが所々にあります。
海上160mを指し示す道路標識
例えばこの道路標識・・・
車に乗ってると普通に素通りしちゃいそうですが・・・
おい、ちょっと待った!
「海上160m」だと・・・?
あまりに普通の道路標識してるのですが、よくよく見ると意味不明ではありせんか?
城が海上?
てか、そんなとこ車じゃ行けないけどどうしろと・・・?
気になるので、車を置いてちょっと見てこようではありませんか。
甘崎城 日本最古の海城
道路標識の指し示す方向にダッシュします。
周りは畑で、畑の間に道があり、そこを進みますよ。
お、なにやら意味ありげな看板が出てきました。
その昔、この先にある島に甘崎 (あまざき)城というお城があったんですね!!
この島です。
実はこの島、大潮の日の引き潮の時間 (1時間ほど?)だけ、こちらの島との間に道がつながるのです!!
こんな感じになるそうです。
大学進学で上京するまでずっと島にいたのですが、実はこれを見たことが無いです (^^;
何と言いますか、昔の人はそういうのをよーく見ているんですね。
普段は海城ですが、月に2日ほどの限られた時間はこちらの島と陸続きになるわけです。
そういう環境を利用して、城塞を築くなんて面白いと思いませんか?
瀬戸内海の要所として機能
歴史は古く、まずは飛鳥時代、天智天皇の勅命で671年に築城されたそうです。
天智天皇といえば、大化の改新とか壬申の乱とかそういうころです。
日本史はよく知らないですが、とにかく歴史の教科書に載っているような時代ということです。
当時の天皇が勅命で作らせたということは、かなりの要所だったのではないでしょうか。
それからずっと海上の要所として、村上水軍の基地として使われていたとのこと。
江戸時代に入り、伊予今治藩 (愛媛県今治市)の城主となった藤堂 高虎の従弟良勝が城主となったそうです。
藤堂 高虎といえば、築城の名手。
江戸城 (東京)や伏見城 (京都)、二条城 (京都)、今治城 (愛媛)、伊賀上野城 (三重)、津城 (三重)などなど、いっぱいお城を作っている人ですね。
甘崎城も彼によって改修されたそうです。
こうして歴史を紐解いてみると、かなり重要な施設だったようですね。
江戸時代にこの地を訪れたドイツ人もビックリなお城だったそうです。
(「水中よりそびゆる保塁あり」〜ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』〜)
今はもう見る影もない感じになっていますが・・・ (石塁などは残っている)
おわりに
大学進学で上京するまでずっと島に住んでましたが、この甘崎城があるあたりは微妙に私の生活圏になかったため、実のところほとんど知りません。
島はそんなに広くはないのですが、とはいえ山手線の内側よりは広いですからね・・・そういうところも多々あります (笑
(山手線の内側の面積 63平方km、大三島64.54平方km、ともにWikipediaより)
一度は干潮のときに行ってみたいですが、帰れなくなるとヤバいですからねぇ・・・
160mくらいなら泳げば?と思うかもしれませんが、島の周りは潮の流れが早く、サメも出るので、あまりオススメできません。